理系人間が解釈する般若心経

価値観

 改めて「物質的価値観」と「魂の価値観」についてまとめてみると・・・。

├現世の物質的価値観
││
│├善:物、金、権力、地位、学歴、外見、知名度など
││└人が羨ましく思う事。(実は裏で人知れず苦労しているかもしれないが・・・)
││
│└悪:貧乏、地位が低い、要領が悪い、地味、体制に迎合しないなど
│  └世間体(表面的な見た目)が悪いと思われる事。

└魂の価値観(動機で決まる)
  ├善:自分を犠牲にしてでもみんなの向上に役に立つように行動する。(大我)
  │├みんなの幸せが自分の幸せ。
  │├陰徳を積んでいる。
  │└感謝の心を持っている(自分は生かされている。自分が生活できるのはみんなのお陰)。
  │
  └悪:他人を犠牲にしても自分さえ良ければいいように行動する。(小我)
    ├人に迷惑を掛けても自分は知ったことではない。
    └バレなきゃウソをついても構わない。

 「現世の物質的価値観」と「魂の価値観」はそれぞれ独立である。
 つまり「現世の物質的価値観」と「魂の価値観」も共に善である場合もあるし、共に悪である場合もある。また「現世の物質的価値観」は善であるが「魂の価値観」は悪という場合もあるし、その逆もある。

 自分が考えていること(またその動機)は、自分以外の現世の人間にはわからないが、霊界からは全てお見通しである。

 物が豊かになって、情報が十分に伝わる現代社会では、他人の表面的な豊かさがわかる。その表面的なことで自分と他人を比較するようになると、それは「執着」のもとになる。

 「大我」に基づいて行動する人にもさらなる向上を促すために困難や災難が降りかかることがある。しかし困難や災難は現世の価値観であり、魂のレベルで考えるとフローチャートを改善するための貴重な経験である。
 「小我」の人の「罰(バチ)が当たった」という災難がふりかかる場合と物質的価値観では、一見、同じように見えるが、フローチャートの改善という見地からすると内容は異なる。

 「自分さえ良ければ良い」という考えで行動していると、現世では一つの方法として「罰が当たる」ということで気付きを促されることもある。つまり、行いの悪い人にも立ち直るきっかけを与えるというシステムになっている。
 意識の高い人も、低い人もレベルは違うが、それぞれ魂の向上を目指せるようにシステムが組まれている。
 自殺というのは、このシステム自体からの逸脱を意味し、全く何も意味をなさない。

 野球などのスポーツに例えれば、負けるよりは勝つほうがもちろんいいが、敗戦は見直しにのきっかけになる。しかし自殺は”試合放棄”に当たり何も得るものはない。

  病気の症状は自然治癒力の発現であるのに、それが不快であったり苦しみを伴うものであるがために、それを薬などで抑えるのは、自分の体に備わっている自然治癒力を弱体化することになる。 関連:「自然治癒力(後出)」
 同様に、人生における困難も、それを克服することによって自分の向上につながるのに、それを回避するのは自分の(魂のプログラムの)ためにならない。それがわかれば困難を完全に回避しようとする「自殺」が最もいけない行為だということがわかるであろう。



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