理系人間が解釈する般若心経

相対的とは?

 「価値観」は絶対的なものではなく相対的なものである。

 相対的とはどういうことだろうか?例を挙げてみると・・・。


 テストなどの成績の順位。 同じ能力があっても、他の多くの人が能力の高い人達だと順位は低くなるし、他の多くの人が能力の低い人達だと順位は良くなる。

 氷点下10℃の日が続いた地域では、0℃になると暖かいと思う。逆に赤道直下の国から出たことのない人には南極の寒さは想像できない。

 電器店に置かれている色々なサイズのテレビを見比べて「これでは小さいからもっと大きいのが欲しい」と思って大き目のサイズのテレビを購入する。
 しかし実際に自分の家の部屋に置いてみると、大きすぎて、ある程度画面から離れないと見にくい。

 高度成長の頃はみんなが一生懸命だったので、休みを返上して働いても不満はなかった。しかし多くの人が十分な休みを取ってレジャーなどを楽しむようになると、休みがないと不満に思う。

 貧しい国や地域の人達が置かれている状況をTVなどの報道で見ると「かわいそうに」と思うが、当事者は先進国の存在や暮らしぶりを知らなければ、それを羨ましいと思うことはない。

 映画やドラマなどで、ある作品が権威のある賞を受賞したり海外で評価されたりすると、自分がどう思うかは置いといて、それはスゴいと、みんなと一緒に賞賛するようになる。

 ブランド品の良さがわからなくても「やっぱりブランド品は違う」と言う。たとえそれが偽物であっても本人がそれを知らなければ同じことを言う。

 毎日、犯罪や自殺者が多いとあまり感じなくなる。


 これらの例からわかるのは、人間が相対的な価値観で下す判断というのは大きく2つある。
 1つは「世間一般の基準があって、その基準と比較しての判断」
 もう1つは「人間が元々持っている、環境に適応するという性質からくる判断」である。

 まず「世間一般の基準があって、その基準と比較しての判断」というのは「自分がメディアなどから得た情報(自分自身の経験を含む)の範囲内で、基準(平均的なもの)が何となく定まり、その基準と比較しての判断」である。
 序列があるものやそれを金額に換算するとどのくらいになるかがわかるものは、自分が平均くらいかそれを上回っていたら安心する。また自分より劣っている人を見ると安心する。それが自分の努力で得た能力であれば良いが、外見、財産、地位、学歴などで必ずしも自分の努力で得たものでない場合、それは魂の向上に寄与しない「物質的価値観」となる。
 多くの人が価値を見出すことについて、自分の頭で考えて本当にそれでいいのか確認する必要がある。

 もう1つの「人間が元々持っている、環境に適応するという性質」というのは「感情をどうコントロールすべきか?(後出)」の「能動的なネガティブな感情」で述べるが、まず生き物として環境に適応して生き抜かないといけないという本能から生ずるものである。
 環境に適応するのは悪いことばかりではない。例えば自分の周りの人達が数段向上して環境が変わった場合に、それに自分が適応すれば自分をも向上させることができる。
 しかし考えなくまわりの環境に合わせてしまう「慣れ」は危うい場合がある。
 他の環境にいる人からはどう見えるのか?意見を聴いてみることは重要である。

 違う環境での生活や仕事、違う考えを持った人の考えを理解することを含めて、経験や見聞がより多い方が偏りのない正しい判断ができると言える。

 これとは逆に相対的でない絶対的なものは。物理法則や数学の公式などである。
 これらは人によって違う結果が出るものではないし、歪曲されることもない。



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