理系人間が解釈する般若心経

プログラムがない時代は・・・

 お経が書かれたコンピュータの無い時代には、当然、プログラムというものもなかった。
 仮にコンピュータのような判断や実行の機能を実現させようとすると、フローチャートのような手順書に書かれている事をその通りに人間が実行するしかなかった。

 前述の「プログラムの見直しとは」ではフローチャートの見直しを野球の例で説明した。
 野球の試合中に選手は様々な状況に置かれる。その際に野球の解説書やノウハウ書に書かれている状況別の対処方法(例えば、2アウトの場合の走塁はどのようにするか?など)通りにプレーを実行できるとすれば、元はいくつかの文章の集まりであっても、それはフローチャートと同等な内容であると言える。
 過去に書かれた文献や、人から人へ口伝えで伝承されてきたノウハウも同様であろう。
 つまり昔から「プログラム」という形式はなくても、「プログラム(フローチャート)」に相当するものがあって、それが伝承されてきたということである。

 「こういう場合には、こうすべし」という教えはプログラムの一部(条件判断→分岐→実行)である。
 ノウハウを伝える本は、実体があるので「色」。しかしその内容は「空」である。
 本の紙が朽ちても、時代が移り変わって文字が変化しても物体として存在しないノウハウは色々な方法で伝えられる。

 お経自体もその役割をしていたのではないかと思われる。
 「空」であるお経が、お経をよむ人間の行動という形で「実体のあるもの(色)」を動かしていた。・・・のではなかろうか?
 お経のノウハウを後世に伝えるためにその内容を書き写す「写経」は情報のコピーである。

 昔はコピーや印刷技術がなかったので、宗教の教えを広めようとすると口伝えか書き写すしかなかった。口伝えだと誤った内容が伝わる恐れがあるので、書き写すことが内容の伝承にはより重要となる。
 写経は宗教の教えを広める重要な手段であるから、これを実行するとより多くの人に教えを広め、よりよい社会になることに貢献することになる。写経をすると功徳が得られるというのはこういう理由ではないだろうか?

 コンピュータの概念などないお経が書かれた時代にも、「実体のあるもの」と「実体のないもの」は分離できることは実はわかっていたのではなかろうか?そして実体のないものを「空」と呼ぶことにしたのではないかと考えられる。
 そしてコンピュータが進歩することにより、「色」はハードウエア、「空」はソフトウエア(プログラム)に対応することがだんだん明確になってきた。

 例えば、初期の自動車のエンジンは、全てメカだった。
 自動車ではエンジンのメカ自体にプログラム(吸排気の弁の開け閉めのタイミングを制御するカムの形など)が作り込まれていたので、プログラムだけを分離することができなかった。しかしどういうカムの形状にするかというノウハウは設計図やノウハウ書などによって伝えられてきた。
 メカだけの場合、プログラムが無くても、例えばセンサーが働いたら動きを止めるといった単純なことはできるが、細かな状況に応じた制御には限界がある。
 現在の自動車は、エンジンにはハードウエアだけでなくプログラム(ソフトウエア)をインストールしたコンピュータが搭載されていて細かな制御がされることによって高い性能が発揮できるようになった。

 このようにコンピュータがより人間に近づこうと高性能化することによって、ハードウエアとプログラム(ソフトウエア)は別になった。
この事は、例えば、人間のような動きができるロボットを研究することで人間の体のメカニズムがわかってくるのと同様で、コンピュータの進化が「色」と「空」がそれぞれ何を意味するかの理解をしやすくしてきたと言えるのではなかろうか?



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