理系人間が解釈する般若心経

智慧の重要性

 「空」におけるコンピュータと人間の知識と智慧についてまとめてみると

「色」
├コンピュータ
│└ハードウエア
└人間
│  
└肉体
「空」
  ├
コンピュータ
  │├データ
  │└プログラム(フローチャート)
  └
人間
    ├知識(データに相当)
    └智慧(プログラム(フローチャート)に相当)
                                       ・・・となる。

 魂の向上のためには、知識を増やすだけではいけない。(ないよりはあったほうが良いが・・・)
 向上のためには、智慧、つまりフローチャートをよりよく改善する必要がある。ところが現代の学校における教育というのは、知識の蓄積ばかりに偏っている傾向がある。

 例えば「歴史」である。
 年号や人物、出来事、制度などをある程度暗記していれば合格点は取れるであろう。

 そもそも「歴史」は何を得るための教科であろうか?
 歴史は、過去における人物の考え方を学ぶための学問であると思う。

 織田信長が鉄砲をどのように導入したかをご存知だろうか?
 ポルトガル人によって日本に鉄砲が伝えられた時、織田信長は、ただ新しい武器を使いたいだけで鉄砲を導入したわけではない。その当時の鉄砲は撃つたびに時間を掛けて弾を込め直さないといけない面倒な代物であった。
 信長は、その欠点を理解した上で戦略を考えた。鉄砲隊を三隊に分けて、各隊が交替しながら射撃を行なわせることによって自軍を勝利に導いたのである。
 決して新しいものをただ使おうというのではなく、戦いにおいて、どのように使えば効果的かを自分で考えて使ったのである。
 受験のための知識としては、歴史上のこういった事実を、「どの年代に誰が何をしたか」ということを暗記するだけで終わっている。これではもったいない。
 しかし、歴史から学んだ智慧であれば、「欠点をどう克服したか」というノウハウを獲得でき、戦いだけではなく広く応用の効く智慧になる。

 それでは「数学」はどうだろう。
 高校生以上で学習する数学は、学校を卒業した後は理系以外の学校や仕事ではまず使うことはないであろう。
 それならなぜ数学を勉強するのだろう?
 本来の数学の勉強は、公式の使い方や基本的なやり方などを習得した後は、試行錯誤を繰り返しながら解法に至るフローチャートを自分で見直す練習である。つまり考え方を学ぶ教科である。
 しかし、今日の受験第一の教育では、その考え方のフローチャートすら自分で考えることなく、多くの使える解法パターンを暗記させられ、短時間で多くの問題をこなす生徒が受験を制して勝ち組として高学歴を手にする。
 しかし彼等が卒業して社会に出た時に「これさえ覚えていれば万事うまくいくマニュアル」というのは存在しない、職場には自分とは違う考えを持った人も多いし、自分が絶対正しいと思ったことが却下されるのが当たり前である。
 社会に出たら「王道」はない。

 子供の頃からじっくり考える習慣をつけるのは、頭の「可動域」を広げる事になる。

 まず、体の可動域を考えると・・・
 スポーツ選手は試合の前には、ストレッチを入念に行って体の可動域を広げる。これによって例えば球技の選手は守備範囲が広くなり、届きそうもない球を体を伸ばしてキャッチしたりできるようになる。
 ケガを防ぐ事もできるようになる。

 頭の可動域を広げるのもこれと同様で、以前は自分の能力では難しかった事でも、勉強を通してじっくり考える習慣を付ければ、これまでの能力の枠を越えて、柔軟に捉えて対処できるようになる。
 つまり数学の勉強によって、数学だけに限らない「物事への対処能力」が向上していくのである。

 難関大学に入学した人でも、勉強方法を独自に工夫したきたような人は、卒業後もその環境に応じて工夫が続けられるであろう。極端に言えば、学校を卒業してから「数学」なんてできなくていいのである。これから着手する未知の事柄をどのようにとらえてどのようにアプローチするかの”要領”や”とっかかり”をどう作れるかが重要なのである。

 子供に対して「理由なんか考えなくていいからただ暗記しろ、そうすればうまくいくから。」という線路を敷いてしまった(物質的価値観を植えつけた)のは、大人の責任であろう。
 子供は悪くない。

 色々な人がいて、色々な仕事があるように、ものの考え方も色々ある。
 その色々な考えが、学校では分野別に教科になっている。
 人は一人で生きているわけではない。色々な人々がいることによって現世の社会が成り立っている。色々な分野の仕事をしている人がいるし、色々な分野の知識や技能を持っている人がいる。自分が生きていられるのは人様のおかげである。色々な教科を勉強することは、これらの人達の考えを理解できるようになることである。
 他の人が社会にどのように貢献しているかが理解できるようになると感謝の気持ちが生れてくる。色々な教科を理解できるような柔軟さを身に付けることによって様々な性格の人たちとうまくやっていけるようになる。
 相手の立場を理解することによって、相手のために何をしてあげればいいのか?ひいては全体の向上を目指すためには何をすればいいかがわかるようになる。

 子供の時に「どうしてそうなるのか?」という理由付けのない知識ばかり詰め込まれてきた人間は大人になって、時代が大きく変わった時にどうすればいいのかがわからなくなる。

 どうすればいいかということがわかっていたとしても”自分自身で考える”ということが重要である。
 知識だけあっても、魂の向上にはつながらない。

 智慧があれば、応用が効く。
 どんな時代であっても、どんな社会になっても、どのように考えれば良いかがわかるようになる。
 現世での修行は、この智慧を身につけることとも言える。



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