理系人間が解釈する般若心経

創造者と自律向上プログラムとは別

 「コンピュータを考えた人」
 「プログラム言語を考えた人」
 「オープンソースの概念を考えた人」
 これらの人達は、何れもコンピュータの行く末を明確にイメージしているわけではない。
 人間がしている作業をコンピュータの機能に置き換えたり、人間の作業のサポートするという概念はあるにせよ、コンピュータやプログラムが考案者の思惑通りに進化していくわけではない。

 これらの考案者は仕組みを作るだけで、何をするかは、プログラム開発側の勝手である。
 しかしOSやプログラム言語などは作成されたら終わりではない。サポートは継続され、実使用における不具合をフィードバックし、またさらに使いやすくなるように、バージョンアップなどで改善が図られる。

 つまりプラットフォームの創造者とそのプラットフォームを利用した開発者は別である。

 これを人間に当てはめて考えると
 メインプログラムは「現世の人間の考え方や行動」を支配しているわけではない。
 親や教師は子供を支配しているわけではなく、子供が自分で考えて行動できるように、見守り、あるときは自分が模範となってまねをさせたりしながら一人前に育てていく。
 同様に、メインプログラムは、現世の人間に試行錯誤して魂を磨かせ、それをその守護霊が見守るのをサポートする。
 目的は、個々の利益ではなく全体の向上である。

 メインプログラム自体が”あるべき理想”や”意思”を持っていてその方向に誘導するというわけではなく、あくまでも現世の個々の人間やその守護霊である魂のプログラムが目的に向かってうまく機能するように整合性を保つだけである。

 現世の人間の魂のプログラムの方向性がたとえ誤っていても、メインプログラムや守護霊はそれを修正しようとはしない。
 しかし”気付き”を促すような最低限のサポートは行う。気付けない人間はいつまでたっても同じような過ちを繰り返すであろう。
 メインプログラムが判断して修正するのなら、現世での魂の修行など必要ないことになる。

 メインプログラムは人間という自律向上プログラムが試行錯誤して向上していく仕組みを提供しているだけ。と言える。
 そして現世の修行で得たエッセンスを霊界に持ち帰ることによってフィードバックを図り、メインプログラムも自らを見直し向上していく。

 ・・・であるとすれば、現世の人間は、”神頼み”のようにメインプログラムだけに頼ってじっとしていてはいけない。
 なぜならメインプログラムは魂が霊界に持ち帰ったエッセンスを反映させるだけで、考えて行動するのはあくまでも現世の人間であるからである。



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