理系人間が解釈する般若心経

まねをする

 一流のスポーツ選手のプレーを見ていて「自分もあのようにできたらいいのに・・・」と思うことはないだろうか?
 そういったプレーはまねしようと思ってできるものではない。しかし優れたものをまねしたいという感情は誰にでもあるのではなかろうか?

 新しい仕事や勉強に取り組む場合は、まずは「まね」から始めることになる。
 「郷に入っては郷に従え」という諺は、未知の環境で行動する時は、自分のこれまでの価値観や経験で行動することを抑えて、まずまねをすべきということを示している。

 赤ちゃんは経験が乏しいので、まねをするというのは理にかなったことである。
 まねをするという習性自体はDNAまたは、魂のプログラムの基本部分に組み込まれていると考えられる。
 何もやらないと失敗はないが、向上することもない。まねをしてもうまくいかない場合にはどうすべきかを試行錯誤し、「プログラムの見直し」を行う。

 赤ちゃんから少し成長した子供も親のまねをする。
 子供が「親の言うようにする」のではなく、「親がする通りにする」のは、まねをするからである。

 自分の子供や部下を背中で教育するという事は、「自発的にまねをさせる」という事である。

 しかし多くの場合、親は子供がこうなって欲しいという行動ではなく、自分がしたいように行動する。
 子供から見ると親の行動は経験に裏打ちされていて、それをまねさえすれば労せずしてうまくいく確率は高いという事はわかっているので、そのように行動する。
 これは会社などの組織でも「今までやっていた通りにすれば間違いない」というのと同様である。

 親として子供にしてやれる理想の教育は、あれこれ子供に言い聞かすのではなく、親が手本となる背中を見せることである。
 いつも完璧な模範を示す必要はない。それでは疲れてしまう。例え失敗してもその失敗を基に、方針を修正し、向上していく姿を見せればいいのである。悩み苦しむ姿を見せることも無駄ではない。

 子供は親のまねをする時、身体的に未熟でそれができなかったり、考えが及ばずにできなかったりしても、身の丈にあった形で自分なりにやろうとする。

 魂のプログラムは、コンピュータと違って「有るか無いか?」や「一致しているかしていないか?」のようなデジタルな判断ではなく「もっと力を入れないと動かせない」や「もっと速く走らないと間に合わない」のように相対的に判断して行動する。経験が多ければ多いほど判断の正確さが増していく。

 まねをすることの究極は「魂のプログラムの一部をコピーすること」である。

 よく言われる日本人特有の習性として「みんながしているから、自分も同じようにする」というのは「まねをする」に基づいたものである。
 日本は高度成長の時代に、欧米の技術の「まね」をして有数の工業国に成長した。
 まねをして技術レベルなどを上げることも重要であるが、今までの考え方にとらわれない独創的な考え方を持つ事も重要である。
 まねばかりしていると独創的な考えは生まれないかというとそうではない。過去の偉人の独創的な考え方から生まれた発明ややり方を見て、「自分も独創的な考え方をしよう」という具合にまねをすれば良い。

 「和して同せず」という言葉がある。
 人と協調はすべきであるが、法や道理に合わないことまで同じようにやってはいけないという意味である。
 まねをするのは、経験の少ない子供の頃や、全く違う文化に出会った時には有効であるが、自分で判断できるようになったら、「みんながするから、自分もする」や「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということではいけない。
 「世のため、人のためになるか?」という「価値観」で物事をとらえて、判断し行動すべきである。


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