理系人間が解釈する般若心経

競争することはいいのか悪いのか?

 現代社会では企業などの「過当」ともいえる競争がある。それがいいのか悪いのかは賛否両論がある。

 もし競争がないとどうなるか・・・
 他との競争のない公務員などの業務はなかなかレベルアップは望めないし、競争のない共産国内でのサービスも質が悪い。
 これだけを見ると競争はあったほうがいいようにも思える。
 
 魂の向上を図るには、相対的に自分と比較する対象は必要である。。 関連:「相対的とは?
 自分は優れていると思っていてもより大きな世界に出るとそうでもない事もあるし、逆に自分は当たり前のようにやっている事でもより大きな世界では賞賛されることがあるかもしれない。狭い範囲の中だけで「井の中の蛙」になってはいけない。

 一方、競争に勝った者が利益を独占したり、競争に負けた者が不利な境遇に追いやられるような競争は、魂の向上にはつながらない。
 例えば薬品メーカーが開発競争に勝って難病の薬の特許を取得し、独占して高価格で販売するようなことがあれば、競争が良いとは言えなくなる。

 これらの事から考えられる事は、競争自体が悪いのではなく、競争の目的が「物質的価値観」にあることが悪いという事である。
 関連:「価値観
 お金を持っている者が有利である資本主義が多くの人の価値観を「物質的価値観」優位にしてきた。
 一流の会社に勤めているかどうかやその役職、持っている権益や学歴などがその人に対する評価になってしまった。
 「献身的な行動をしているか」や「感謝の気持ちを持っているか」などは、評価されなくなってしまった。

 資本主義でも以前の会社は、社員のために、また社会に貢献できるような社員を育てる(魂を向上させる)文化があった。しかしそれが現在では人を「物」のように扱い、利益に貢献できない者は容赦なく切り捨てる場合も少なくない。
 このような社会になると、「魂を向上させるための修行を行う」という現世での本来の目的が達成できなくなる。理にかなっていない目標にみんなが向かうようになれば、世の中がおかしくなるのは当然のことである。

 これに対してスポーツやコンテスト、受験のための勉強、権威のある賞を獲得するための競争は「魂の価値観」で努力、創意工夫するのでこれは「魂を向上させるための修行」になる。
 もしスポーツの勝負の判定がフェアでない場合には、例え自分が有利な側であっても申し出るような競技者は「自分の魂を向上させるため」に競技をしているというのがよくわかっていると言える。

 将棋の対局が終わった後に「感想戦(お互いの棋力向上を図るために対局内容を振り返る事)」をするのは、自分を高めるためだというのが良くわかる例である。

 社会における競争においては、社会に貢献し、それを多くの人から認められることに目的を置き、その目標に向かっての努力に喜びを感じるのが魂を向上させるということである。

 競争に勝つことを、自分(の魂)を向上させる手段の1つと考えれば良い。

 最近の運動会では競争に負ける事を気遣って順位をつけない傾向があるという。
 競争に負けて挫折感を味わうのは悪いことばかりではない。問題はそれをポジティブに転換できるかどうかにある。
 悔しい思いをバネにして勝てるように頑張るのもいいし、それで結果が出なくても、その子供は「人の痛みのわかる」人間になるであろう。

 「世のため人のため」という魂の価値観をコンセプトにしている会社は利益が上がらないかというとそうではない。
 そういう会社には「類は友を呼ぶ(後出)」で献身的な人が自然に集まり、「世のため人のため」になる製品やサービスを生み出すようになる。
 そしてそれらを献身的な社員が提供すれば、同じ価値観を持つ人達に受け入れられるので、結果は後からついてくるのである。



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