理系人間が解釈する般若心経

アカシックレコード

 アカシックレコードをご存知だろうか?

 アカシックレコードは、本来は「宇宙や人類の過去から未来までの歴史が記録されているデータバンクのようなもの」であるとされるが、死後すぐに自分の現世での全ての行動全てを見るのもアカシックレコードと言われる。

 なぜそのようなものを見るのだろう?

 これは、肉体の器官の一部である脳にしかない記録内容を魂に引き継ぐプロセスであると考えられる。
 なぜかというと、脳にしかない情報を置き去りにして、魂だけが抜け出てしまうと、魂が霊界に進んだ時に、一足先に霊界に進んだ現世での家族や友人の魂に出会った場合に全く記憶がないと、それが誰だかわからないという問題がある。実際は彼等に出会うとすぐにわかると言われているので、現世での記録は魂に戻されているはずである。

 現世の人間に宿る魂のプログラムは経験を基に洗練されていくが、それらの経験自体の記録は魂自体には書き込まれず、脳に残っていると考えられる。

 例えば、法律書にはどういう事が犯罪で、どういう罪を犯したらどのような罪に問われるかは記されている。
 しかし法律書にその法律がどういう背景をもとに成立したか、あるいは改正されたかまでは記されていない。それらをくまなく記そうとすると、それはとんでもない量になって、全てを掲載するのは困難になるからである。

 例えばコンピュータにおいて、ウィンドウズというOS(基本プログラム)が95→98→Me→XP→Vista→7と進化しても、ワープロソフトが機能を進化させてバージョンアップしても、そのきっかけとなった不便な点がいちいちそのプログラム自体に書き込まれているわけではない。

 現世の人間が生きている間は、フローチャートは魂にあり、細かな経験の記録は肉体の器官である脳にあると考えられる。
 そうなると、脳にしかない情報は、人間の死後、いずれかのタイミングで魂にコピーされるはずで、そのタイミングはと考えると、アカシックレコードを見る事が情報をコピーするプロセスであるというのは有力であると考えられる。

 睡眠時に見る夢は、実は寝る前の一日の出来事を脳の中にきちんと整理するための情報を移動させるプロセスであるという説がある。アカシックレコードを見るのも、同様なプロセスかもしれない。

 死後にアカシックレコードを見るのは、生前に自分に起こった全ての出来事を、現世の物質的価値観ではなく、魂の価値観で改めて検証して霊的真理を理解しやすくする目的もあるのではなかろうか?
 霊的真理を理解することによって現世への執着がなくなれば霊界での修行にスムーズに移行できるようになる。
 しかしできればアカシックレコードを見ての反省ではなく、現世にいるうちに反省した方が望ましい。
 教会などで行われている懺悔は自分の行動を反省する一つの方法ではなかろうか?



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